2004年。演劇を通じて“富山に新しい文化の種を蒔いていこう”という趣旨に賛同した有志が集結し、06年にNPO法人化し誕生したのが “エフサイト” です。07年から開始した高校生の文化活動支援を通して、文化を通じた青少年の健全育成に特に力を入れ、現在は地域、業界の垣根を越えた多数の理解者・協力者と共に、全国へとネットワークを広げています。
若い世代にとって、日常触れあう世界の大半が家族・学校・塾などに占められています。他者とのコミュニケーションも両親や兄弟、同級生のレベルにとどまり、同じ地域に住む異世代の人々は、ほとんど話す機会もない「他人」となっています。かつての地域共同体のような相互扶助の絆、異なる世代間の交流が希薄となり、過剰な情報を受動的に消費するだけの生活に慣れ切った現代人の中には、本来、あらゆる人が有していたはずの他者への関心や好奇心、成長への意欲や目的を見失い、惰性のような日々を過ごしている人たちも少なくありません。
私たちは、高校生・大学生らとの様々な活動を通して、そこに、人への興味や関心を持たなければ表現できないようなテーマを設定することで、意識的に他者への好奇心を引き出すことができないかと考えました。自ら学び、自ら成長し続けようとする一人ひとりの意欲を、いかに引き出し、いかに広げていくかということが、今日の地域における課題のひとつと捉えています。学びつづける意欲の母胎は、日常生活の中で触れあう他者への関心や好奇心です。そうした関心や好奇心があるところには、おのずとコミュニケーションが成立し、人の絆がより強く結ばれることによって、多様な「学びあい」の機会も生まれてくると考えます。
生涯学習意欲の基礎にある「他者への関心・好奇心」を引き出すことによって、人と人とのコミュニケーションの再生を図り、そのコミュニケーションから新たに生まれた絆を通じて、「学びあい」の場を創出していくことを活動の使命と考えました。NPO活動によって芽生えた「他者への関心・好奇心」をスタート地点に、より深い他者理解・異文化理解へと変化させていくことが、今後のテーマと考えています。芸術分野を基軸に慣習や前例にとらわれることなく、創造性に溢れる活動を展開したいと考えております。
2014年、北陸中日新聞富山版「NPO通信 わたしが発信」に連載させていただいた記事です。F-siteの歩みと想いをつづっています。
ぼくらの原点・回顧録
毎年八月、二日間にわたり富山県内の高等学校放送部に所属する生徒を対象に部門別講習会が実施されます。エフサイトからは、例年、アナウンス部門とドラマ部門の講師を派遣しており、理事長の私は、(ラジオ・テレビ)ドラマの制作講習会を担当しています。どのようにして物語を創っていくか、伝えたいことをわかりやすく伝えるにはどうすれば良いか、等を指導させてもらっています。
想い返せば、エフサイトの歴史は、今から十六年前の一九九八年、幼馴染で同じ長屋の住人だった水上竜士(りゅうし)(団体理事、現京都造形芸術大学准教授・俳優)が、東京で発表した戯曲「青空のメロディ」を観劇したことから始まりました。
「苦しくなったら、いつでも帰ってこい。みんないつもここにいるから」
劇中、兄から弟への台詞に、遠い昔を思い出し、涙を抑えることが出来なかったことを覚えています。彼が描く世界はとても暖かくそして懐かしく、小さい頃、決して恵まれた環境ではなかった私たちは、いつも助け合い、励まし合い、喧嘩し合い、そして、夢を語り合い、研鑽し合いました。
「いつか必ず、故郷の富山で、何か面白いことをやろうよ」
その約束は、それから六年後の二〇〇四年、戯曲「青空の向こう側」プロアマ合同富山公演によって現実のものとなったのです。
実は、その裏にはもう一つの約束がありました。この作品は、水上竜士の作品に数多く主演した俳優、故菅原香織(かおる・菅原文太氏の長男)を偲んで書き下ろしたものでした。
生前彼が私に言った言葉「今度は是非富山で舞台をやりましょうよ」。いつか必ずと誓った約束は、残念なことに彼不在で実現されましたが、各地で活動する多忙な友人らを一つにしたきっかけだったように思えます。
この舞台公演で知り合った仲間が賛同し「演劇企画集団エフサイト」が富山で誕生したのです。その時、今のNPO法人F-siteの姿を、いったい誰が想像できたでしょうか。
(NPO法人F-site 理事長 稲林忠雄)
舞台から映像へ。回顧録その2
〇五年一月、戯曲「青空の向こう側」のプロアマ合同富山公演(富山市オルビス)は、連日大盛況のうちに終了しました。主催責任者だった私は、約束を果たした満足感と、3か月間無休の活動だったため、しばらく休もうと思っていました。ところが、芝居をご覧になった方や、当日来られなかった方々から「もう一度観ることはできませんか」という問合せが殺到したことで、次の行動に火がついてしまいました。
この舞台公演をきっかけに誕生した「演劇企画集団エフサイト」のメンバーらと話し合い、もっと大勢の人に観てもらいたいと、ただそれだけの理由で、次は映像に取り組むことになりました。すぐさま「ショートフィルムコンテストinTOYAMA」を企画し、全国各地から多くの作品を集め始めたのは〇五年四月のことでした。
時を同じくして、映像制作で富山を盛り上げようと本格的に動き出した出来事がもうひとつありました。
「僕たちはプロになりたいんです。」
そう言ってひとりの青年がエフサイトの門をたたいたのです。当時、アマチュアスポーツ・クラブチームの若き主将でした。
彼の熱い想いに心を打たれ、主要メンバーらと支援策を考え、出した答えはドキュメンタリー映画の制作でした。富山県の地域性を考慮し、「三年間じっくりと時間をかけて賛同者を募りながら知名度を上げていき、プロ化へ」という作戦を立て、各地から活動に参加するメンバーを集め、映像を含めた複合企画の支援が始まりました。
半年が過ぎようとしていた頃、即効性のある手法を望んでいた若い彼らにとって、三年という年月はあまりにも長く、また、新たな支援者の出現により、これら計画は途中で白紙に戻ることになったのです。
「仲間たちの想いが宙に浮いてしまう。約束を守らねば」。あせる私に、友人でメンバーのひとり、沖縄出身の米須清正氏が言った言葉が、エフサイトが向おうとする方向を変えることになるのです。
「この企画を、沖縄で実現させませんか」
NPO法人F-site 理事長 稲林忠雄
富山と沖縄 回顧録その3
「何故、富山県のNPO法人が沖縄県で映画を作ったのですか」。
エフサイトの変遷を紹介した後に、今でもそんな質問をされることがあります。そのたびに「いろんな要因が絡み合い、一言では説明できないので、いつか機会があれば」と、答えます。事実、このNPO通信でも書ききれないほどの理由があるのですが、NPO法人になったきっかけと重なる大きな理由は外せません。
それは、沖縄県出身の米須清正さんとの出会いです。当時、富山県在住であった彼とは、互いの息子が同じ少年野球チームに所属していた縁で知り合いました。彼は、初対面からとても社交的で、あっという間に周囲を明るくし、人見知りで人一倍警戒心の強い私でさえ、気が付くと打ち解けていた次第です。
友人として親しくなるにつれ、ときには、彼の「他人を受け入れる心・ほめる心・信じる心」に眩しさすら覚え、そして、彼が教えてくれた言葉は、私に足りない多くを気付かせてくれました。
「沖縄には、いちゃりばちょーでーっていう言葉があるんです。出会えば皆兄弟という意味です。」と語った彼の言葉に、心が震えたことを今でも覚えています。
また、二十数年前に、彼が故郷沖縄を離れて内地に旅立つときに、父から言われた言葉。「どんなにつらく悲しいことがあっても、いつも笑顔でいなさい」。彼はその言葉を富山に来てからもずっと実践していたことにも感心させられました。
それまでの私にとって、沖縄は、ただ観光で数回訪れただけの場所でした。しかし、彼との出会いと、彼から聞いたいろんな話が、沖縄への興味を掻き立て、沖縄へ向かおうとする原動力になったことは言うまでもありません。
エフサイトの活動精神は「伝える」ことです。それを生業にしている多くのメンバーらが、青少年を中心に「伝える必要性・重要性・危険性」などを日々互いに学び合っています。
二〇〇五年十月。思えば、この辺りから演劇企画集団がNPO法人へと舵を切り始めた岐路でしょうか。
NPO法人F-site 理事長 稲林忠雄
いざ沖縄へ! NPO法人化への変遷(回顧録その4)
「沖縄を舞台に、映画を作ろう!」
沖縄出身の友人・米須氏の助言で、当初計画していた富山のスポーツチームのドキュメンタリー映画から、沖縄を舞台にしたドラマへと方向を変えることになりました。
大きな方向転換に、すぐに気持ちを切り替えられないスタッフもいましたが、「はじめに描こうとした”スポーツの奥深さ”をあわせもった内容にしよう」という意見に、笑顔になった瞬間を覚えています。
その後、富山や東京で、何度も会議を行い、物語で何を描くかを徹底的に話し合いました。
「バスケットボールには、どんな子供にも居場所があるんです」。
私の息子がバスケを始めた頃、当時の指導者に言われた衝撃の言葉です。
バスケットボールには、大きな子、小さな子、小回りが利く子、ジャンプ力がある子、男の子女の子・・・それぞれの立場や能力に応じた役割・ポジションが用意されているスポーツなのだ、と。
毎日のように「いじめ問題」が世間を騒がしていた頃、このような考え方を持ったスポーツ指導に感心させられました。
企画会議でこの話をすると、米須氏からさらに興味深い話を聞きました。
「沖縄のバスケには独特のスタイルがあるんです。今から三十数年前、沖縄県の辺土名高校が、インターハイ三位になり旋風を巻き起こした。そこには、アメリカ人の試合を見て学び、考えながら戦った歴史と風土があるのです」と。
親も子も週休二日が普通になり、子どもたちのスポーツ活動に大人の関与が「あたりまえ」になっていた頃。様々な考え方の“ 大人”が子どもたちを取り囲み、何でもすぐに答えを教える、必要以上の指導が目に余りました。
息子の部活動に関わりながら、「本当にこれでいいのだろうか。」と、自身の行動にも疑念を持ち始めた時期でした。
米須氏の「見て学ぶ」という話に、それらを自身にも世間にも問いかけてみたい、という想いが、さらに沖縄への強い興味に拍車をかけたのです。
そして映画は、「バスケットボールのスポ根映画」に決まりました。
NPO法人F-site 理事長 稲林忠雄
NPO法人化への変遷(回顧録その5)
若者たちが大小さまざまな太鼓を打ち鳴らしながら躍動感あふれる演舞を繰り広げる。沖縄の「エイサー」を初めて見たとき、その迫力に鳥肌が立ったことを覚えています。
〇四年のこと、高岡駅前の活性化事業に関わっていた私の企画に、米須氏の協力により、『古武道太鼓集団“風之舞(かじまぁい)”』のメンバー約十人が、沖縄から来てエイサーを披露してくれました。
当時の代表・山城健一氏から、「エイサーには、古くからある“伝統エイサー”と新たに誕生した“創作エイサー”が共存しているんですよ。」と、聞きました。伝統を守ることと、新たなものを生み出すこと。全く別と思えるこの二つが共存していることに衝撃を受け、ここでも互いに尊重し認め合う姿勢に驚かされ、ますます沖縄のとりこになったのです。
こうして私たちは、「バスケットボール」、「エイサー」などを織り込んだ「沖縄のこころ」を描こうと、そして、やはり沖縄に触れ、直接話を聞かなくてはと、〇五年十月、沖縄へ向かいました。
那覇空港に到着すると、かじまぁいの山城さんが出迎えてくださり、その足で地元メディア各社を訪問しました。短期間の滞在ではありましたが、沖縄バスケの歴史を作られた方々やフイルムコミッションなど、矢継ぎ早に沖縄中を駆け回りました。到着翌日の地元紙には、「私たちエフサイトはこれから沖縄の人たちと一緒に映画を作りたい。そのために力を貸してほしい」との記事が掲載されました。
その日の夕方、富山の事務所に一本の電話が入りました。
「新聞記事を見ました。稲林さんという人に、私の生涯のことをぜひ話したい」と。
富山のスタッフから連絡を受けた私たちは、すぐにその方のもとへ向かいました。お会いできたのは、午後十時を回ったころだったと思います。その方からお聞きしたお話と、見せていただいた資料は、私の想像をはるかに超える壮絶なものでした。
この方との出逢いが、さらに、映画の方向性を変えることになるのです。
NPO法人F-site 理事長 稲林忠雄
NPO法人化への変遷(回顧録その6)
車のラジオから流れてくる軽快な音楽と、国道沿いの米軍基地の明かりを感じながら、那覇市から沖縄市へと向かいました。
「私の生涯の話をしたい」。そう伝えられただけで、相手がどんな方なのかもわかりません。
少し身構えながら待っていると、しばらくして現れたのは、六十歳を過ぎたくらいの小柄で物静かな男性。中学校の校長先生だったその方は、基地の街“コザ”で生まれた子どもたちのこと、その子らが中学生になり、バスケの全国大会で優勝したことなど、多くの資料をもとに話してくださいました。
日付が変わり、「なぜ教師になられたのですか」と質問した私に、「自分の生い立ちを他人に話すのは初めてですが」と、ニコリとほほ笑み、ゆっくりと語り始められました。
その内容は、笑顔とは正反対のものでした。相づちも打てなくなっていた私に、「ぜひとも、この話を伝えてください」と、自作の詩集を渡されたのです。開かれたページの詩と古びた写真からは、「命のつながり」が、とても優しく、切なく感じられました。
その他たくさんの方々からも、私たちの予想を上回る生々しい話を伺うことができました。その度に、必ず口にされるすべての人たちへの感謝の気持ち。大切にしあう家族の存在。沖縄に生まれ、沖縄で育ったが故に背負う運命のようなものが、深い哀しみと大きな喜びとして、一人ひとりの人生に刻み込まれている。それを、初対面の私たちに、惜しげもなく心を開き、話してくださったのです。
私は、沖縄の人たちから、「伝えてほしい」という大きな期待を感じました。自慢や不幸話を聞かされるのではないかと、一瞬でも思った自分を深く恥じました。
取材を終えて富山に戻った私は、当初イメージしていた娯楽目的のスポ魂映画よりも、沖縄で出会った人たちから感じた「魂」を伝える映画を、先に作らなければいけないとの思いに駆られ、自分でも驚くようなスピードで新たな脚本を書き上げました。
NPO法人F-site 理事長 稲林忠雄
今から十年前。私(事務局・花田恵)とエフサイトとの最初の出会いは、ラジオから流れてきた、ほんの短い告知でした。芝居のオーディション参加者募集のお知らせです。
それまでの自分は、いろいろ興味を持ってもできない理由を先に考えてしまい、なかなか前に進もうとしませんでした。そのときも、芝居は気になったものの、「どうせ無理」と諦めていました。
ところが、募集の詳細を見てみると、当時の私にとって参加する条件は、決して「無理」ではなく、何かを変えたい気持ちもあり、思い切って応募したのです。
全ては、そこから大きく動きだしました。まさか自分がプロの方と同じ舞台に立つとは、そして、この出会いが、自分の人生を大きく変えることになるとは、夢にも思っていませんでした。
「演じるだけではなく、作り手もやってみないか。この活動をNPOとして本格的に取り組みたいんだ」。舞台が終わるころ、代表の稲林忠雄さんから声を掛けられました。
当時、NPOという言葉には全くなじみはありません。ただ舞台を作っていく過程で稲林さんから聞いた話は、どれも新鮮でとても興味深いものでした。
「この人についていくと、なにか面白いことがあるのでは」。そんな軽い気持ちで、エフサイトに残ることになったのです。
それからは、「稲林忠雄」という人物に付いて行くのに必死の毎日です。冗談だと思っていたことを、「約束だから」と、本当に実現していく。それも、まったく別分野の人や企画を、次々とつなげていくのです。動くスピードも速く、「その発想は、いったいどこから生まれるんだろう」と驚くことばかり。
日々いろんな人との出会いや新しい発見の連続で、エフサイトの活動を通して得た感動の数々は、私を成長へと導いてくれました。
そして、「沖縄を舞台に映画を作ろう」。そんな夢のような話が本当に、しかも信じられないくらい多くの人たちの協力を得て、実現されることとなるのです。
NPO法人F―site事務局長・花田恵
制作することになった映画は、プロもアマチュアも関係なく、ほとんどの出演者が沖縄の人たちで、撮影の全てを沖縄で行いました。
沖縄での一般オーディションの時に、出演料や交通費も払うことができない旨を伝えると、応募してくれた沖縄の人たちが、みな口をそろえて言いました。「沖縄とバスケのためなら、何でもします」
その言葉通り、彼らは、この映画と私たちスタッフに対して、社交辞令ではない本気の愛情を注いでくれました。ロケ中、制作資金が底をつくなどさまざまな問題にぶつかった時も、常に私たちの側にいて、助けてくれたのは沖縄の人たちでした。
人が人をつないでいき、沖縄県庁での撮影やクライマックスでの千人以上の無償エキストラなど、困難と言われたシーンが、次から次へと実現されていったのです。
自分の利害のためではなく、相手に喜んでもらうために本気で動くことのできる人たちです。ただただ、「沖縄を好きになってほしい」「沖縄のために」と。そして、いつもどんな時も笑顔で、お金がなくても今できることを精いっぱいやったらいいと言ってくれる。なんくるないさ(どうにかなるさ)と励ましてくれる。でも注がれるまっすぐな愛情に対して、素直に受け取ることも、返すこともできない。そんな自分のちっぽけさを感じました。
「ここ(沖縄)で受けた恩と感じた大切なことを、内地に、富山県民に伝えたい」。沖縄を離れる飛行機の中で、代表の稲林忠雄さんが言った一言が、八年たった今も、エフサイトの活動の“柱”として続いています。
「誰かのために、誰かに喜んでもらうために」という「沖縄の人たちの心」に少しでも近づけるよう、そして、「団体と活動に信用を」と、エフサイトのNPO法人化が決まりました。私たちが、本格的に非営利活動を展開していく「大きな転機」となったのが、「沖縄」だったのです。
二〇〇六年、エフサイトは、NPO法人としての新たな一歩を踏み出しました。
NPO法人F―site事務局長・花田恵
沖縄で生まれ育った私は、東京での専門学校勤務を経て、一九九〇年春、姉妹校設立準備のため、上市町に移り住みました。壮大な剣岳を間近に仰ぎ、四季折々の美しい景色がすばらしい同町は、故郷の沖縄と同じくらい温かい人に囲まれた住み良い町でした。水泳や野球の指導、PTAや児童クラブの活動などを通して、多くの人たちと交流を深めることができ、周囲の人たちに助けられてばかりの毎日でした。なによりも、富山で五人の子宝に恵まれたことは、私の人生にとってかけがえのない大きなプレゼントでした。
そして、長男が所属していた少年野球チームの納会で出逢った方が、現在のエフサイト代表の稲林忠雄さんです。稲林さんは、穏やかで終始笑顔でしたが、話してみるととても情熱的。沖縄にも興味を示してくれたことと、彼もまた四人の子供の父親だということで、瞬く間に意気投合し、家族ぐるみのお付き合いが始まりました。
故郷沖縄には、世界に誇れる独特な伝統文化があります。その沖縄と、第二の故郷富山との架け橋になりたいとの強い思いがあった私は、富山と沖縄の文化交流会を企画しました。
二〇〇二年七月。富山空港と那覇空港を結ぶ沖縄便の季節運航が始まりました。就航記念第一便で、私は家族を伴い、そして、稲林さん親子と、稲林さんの幼なじみの水上竜士さん(現京都造形芸術大学准教授)をお誘いし、沖縄へと向かいました。
那覇空港では、古武道太鼓集団「風之舞」で古武道をご指導されている山城師範と伊敷師範が、私たちを出迎えてくださいました。風之舞による演舞や、私のいとこ弟達、地元の歌手、ライブハウスの方々など、たくさんの協力があり交流を盛り上げてくれました。
「沖縄には本土で失われつつある“郷土愛”と“家族の絆”がある。とても素晴らしいです」。
そう話しながら目頭を熱くしている稲林さんと水上さんを見たとき、私は、本気で彼らと「一緒に夢を創りだしたい」と思いました。
NPO法人F-site 理事 米須 清正
二〇〇八年春、長男の高校進学をきっかけに、家族全員で富山から沖縄に帰郷することになりました。稲林忠雄さん(エフサイト代表)へ帰郷の報告に行った時、「ちょうど会議をしていたところです。沖縄に戻られるのであれば、映画制作に関わってもらえませんか」と、東京からのスタッフらを紹介されました。この偶然が、沖縄での映画制作に全面的に関わる新たな出会いになったのです。
沖縄に戻りしばらくして、監督を含めた制作スタッフとのロケハンが始まりました。地元の協力もあり、次々とロケ地が決まり、すべて順調に進んでいました。
しかし、大きな壁が立ちはだかったのです。クライマックスシーンでの観客(エキストラ)動員でした。稲林さんの台本には“超満員”と書かれている。監督らスタッフ全員、ほぼ諦めと落胆の表情。「大丈夫、集められるから」と全員の心配を払拭しようと宣言してしまった私は、県内各地のさまざまな集会の場所へ、映画制作の趣旨と協力のお願いに走り回りました。
すると、中学時代の先輩であり、沖縄県ミニバスケットボール連盟理事長の桃原修先生(現普天間小学校教頭)や、コザ中学校女子バスケットボール部の松島良和監督が、各地区の責任者、数多くの指導者らに声を掛けてくださり、チームの子どもたちとその保護者に、参加協力をお願いしてくれました。
そして、緊張しながら迎えた沖縄県沖縄市体育館でのクライマックスのシーンには、私たちの不安をよそに、なんと千二百人もの協力者が集まってくれたのです。映画ロケ中は、二〜三時間の睡眠が当たり前。それでも、お世話になった方々への感謝の気持ちが力となり、笑顔で過ごせた日々となりました。
それ以外にも、「前例がない」「絶対に無理」と言われた沖縄県庁内や警察署内での撮影など、本当にたくさんの方々のご協力により実現することができ、沖縄の“ゆいまーる精神”と“結束力”、“仲間の絆”をあらためて思い知った瞬間でした。
NPO法人F―site理事・米須清正
沖縄には、年間数回の大型台風がやってきます。台風の影響が少ない富山県でしばらく過ごした私にとって、ロケ中に遭遇した台風は、違った意味ですさまじいものでした。
撮影期間や費用が限られている私たちに、台風は容赦なく襲い掛かったのです。
「重要なシーンが撮れない。今日を逃すと、大きな変更を余儀なくされる」。
ちょうどその日は、県庁での撮影日でした。台風直撃時のために、県庁では対策室が設置されます。そうなると当然撮影は中止。一時もスケジュール表と電話を離さず、祈るような表情の花田恵さん。彼女は、女優として出演するかたわら、制作現場責任者という重要な役割を兼務していました。そしてとうとう彼女の責任感と頑張り屋の性格が大きなストレスとなり、体調を崩してしまったのです。また、撮影も終盤に差し掛かかり、疲労と、不安が、スタッフ間に亀裂を生じさせていきました。
「米須さん、俺はみんなに何をさせているのだろう。資金も底をつきました。もうこれ以上は無理かもしれません。でも、苦しくても、どんなときでも、ずっと笑顔でいなきゃいけないんですよね」
県庁からの報告を待つ間、スタッフの前では決して弱音を吐かなかった製作総指揮の稲林忠雄さんが、二人きりの私のそばで涙を流し、そうつぶやきました。
その時私は、彼にどんな言葉をかけたのかはよく覚えていません。ただ、私が沖縄を離れるときに父からいわれた言葉を、彼は、彼なりに理解し実践していたことに驚かされました。それと、父の言葉の意味が、数十年経って「自分だけではなく、周囲の人も笑顔にしなさい」という意味も含んでいることを同時に理解した瞬間でした。
現在私は沖縄で、大学業務と教育・文化・スポーツが融合できる組織づくりに踏み出しています。沖縄を代表する俳優さん達との沖縄文化継承事業などを通して、「最後まで諦めない精神」「命の尊さ」「生きる喜びと生きる力」「優しさ」を、多くの人々に伝えていきたいと思っています。
NPO法人F-site 理事 米須 清正
責任と使命感を持ってしっかりと活動していこうと決意した私たちは、映画制作と並行して申請手続きを進め、二〇〇六年八月、NPO法人に認証されました。
資金もない、人もいない。「伝える活動」を理念に掲げてスタートしましたが、具体的に何ができるのか。どんな活動を進めていけばよいのか。一方、撮影後約半年で、待ちに待った粗編集映像ができ上がりました。
「何かが足りない。描きたいものがきちんと表現できていない」
映像を見ながら、稲林忠雄理事長(製作総指揮・脚本)が言いました。沖縄の方々に喜んでもらえる作品になっていないと肩を落としているのです。
そのとき、耳を疑うような言葉が理事長から出てきました。編集した映像を沖縄の方々に見せ、伝える大切さと難しさを話し合いながら、お互いに学ぶという活動を、NPO法人としての最初の活動にしたい。そして、沖縄の描き方での違和感を指摘してもらい、可能な限り修正し沖縄の人たちと一緒に完成させようというのです。
今考えればとんでもないことです。が、その時はそれが妙に新鮮で、お世話になった方々にお礼もできると、電話で相談した沖縄県在住の米須清正理事とともに、ワクワクしたことを覚えています。
約束を守るために必死で資金を捻出し、一円でも安価にと格安チケットなどを調べて毎月二週間沖縄に滞在し、試写会でアンケートを取りながら、二人体制で半年間沖縄県内を回りました。集客と費用軽減のためにと、エイサーや沖縄音楽などのライブを同時に開催することや、滞在場所の無償提供など、またしても沖縄の方々からたくさんのご協力をいただきました。
ある日、慣れない場所で小規模ながら懸命にNPO活動をしている私たちに、「那覇市NPO活動支援センター」を訪ねてみなさいと紹介されました。これが後に、NPOとはどういう活動なのかを知り、また、沖縄県で活動するたくさんのNPO法人との出会いの契機となったのでした。
NPO法人F―site事務局長・花田恵
『那覇市NPO活動支援センター』には、NPO団体や、これからNPOを立ち上げたい人など、大勢の方が相談に訪れていました。スタッフの方々は、終始笑顔で対応されており、県外から来ている私にも、丁寧に接してくださいました。映画を見ながら意見交換する沖縄での活動期間中に、沖縄のNPO団体からも多くを学び、そして、ネットワークを広められないだろうか。そう考えた私たちは、センターで紹介された沖縄県内のNPO団体のうち、「青少年育成」や「芸術文化活動」をしている団体をピックアップし訪問しました。訪問を重ねるうちに、私が最初に抱いていたNPO活動に対する不安も、次第に薄れて行きました。
一方、チラシの手配りやポスティングもやりましたが、映画を使った私たちの最初のNPO活動は、知らない土地で実施するには、やはりハードルが高く、会場にひとりも来られなかったこともありました。そういう中、うれしかったことがあります。見終わった方から「こんないい映画をなぜもっとたくさんの人に見てもらわないのか」と言われたこと。そして、上映終了後、挨拶を終えた理事長の元に、一人の女性が話をしたいと近づいてこられ、「小中高と、一度もレギュラーになれないのに、バスケを辞めなかった息子の気持ちが、今わかりました。帰ったらすぐ、東京にいる息子に電話します。ありがとう」と、涙を流されたことでした。
各地の上映会に毎回足を運んで手伝ってくれた人、もう一度観たいと遠くの会場まで来てくれた人、映画を観て感じたことを長い手紙に綴ってくれた人。
「伝えたいことが表現できていない。」
そう言っていた作品なのに、逆に、映画を観た人たちから、この作品の素晴らしさを教えてもらいました。この映画のおかげで、かけがえのないものを手にし、感動が胸に刻み込まれました。たくさんの人達の想いと協力の賜物で出来た『物語』は、今なお、私たちのNPO活動の根となり宝物として生きています。
NPO法人F-site 事務局長 花田恵
試写会を重ねながら完成させた映画「風之舞~風の復活~」の完成感謝上映会を開催し、感動と新たな決意を胸に、沖縄から帰ってきたときのことです。採択されるとは思っていなかった助成事業の内定通知が届いていました。
NPO法人としての活動実績を上げるためには、やはり資金が必要。そんな中で出会ったのが、青少年育成のための助成事業募集のお知らせでした。団体内で協議を重ね、事業の骨子をまとめて、富山のスタッフが何度も窓口に通い、担当の方から書類の作成を教えてもらいながら申請したものでした。
申請事業が認められ、独立行政法人福祉医療機構からの助成を受けられることになり、二〇〇七年四月。いよいよ本格的に富山県でのNPO活動が始動しました。
『地域内での青少年の自主的総合体験活動に関する事業』、通称、『高校生ドキュメンタリー工房』です。内容は、参加する高校生が、「福祉」というテーマに基づくドキュメンタリー映像を制作し、エフサイトが、その過程で必要になる機材の貸与と、映像制作や福祉のことを学ぶワークショップを開催するなど、全般的にサポートします。出来上がった作品は発表会で上映し、相互に意見を交わし交流を深めよう、というものでした。
まずメディアや福祉関係者等による実行委員会を設立して、事業の目的や実施体制を確認し、私が担当した事務局では、参加校の募集活動に入りました。委員から紹介してもらった県内の高校を訪問し、先生方に放送部等の事業への参加をお願いしますが、高校生と関わったことがなかった当時の私には、なぜこの活動が生徒達のためになるのか、正直あまりよくわかっていませんでした。当然、事業の趣旨もうまく説明できず、先生方の共感も得られなくて、断られることが続きます。
事業を通じて高校生と私たちとの信頼関係を構築し、その上で、沖縄から学んだことを若者たちに伝えたい。そんな願いも消えてしまいそうになるほど、苦い現実を味わった瞬間でした。
NPO法人F-site 事務局長 花田恵
学校側に、『高校生ドキュメンタリー工房』事業への趣旨を伝えるためにはどうすれば良いのか。いきなり「伝える大切さ」を説いても、受け入れてはもらえないだろう。ましてや、活動実績も少ない私たちの知名度の低さは致命的。生徒を守る先生方の警戒心を失くしてもらうには、熱意しかない。ただ、熱意と言っても…。
事業の効果をこの時点で理解できなかった私が、うまく説得できず途方に暮れていると、エフサイトのメンバーが見かねてアドバイスをくれました。そして、「プロから映像制作の技術を教えてもらえる」「高校生にとって、外部の方と関わる機会は必要だ」と、先生方が活動の意義を理解し、生徒たちのためになると判断してくださり、ようやく五つの参加校が決定しました。映像制作が得意な全国大会レベルの放送部三校に、任意の生徒たちのグループと、美術部が一校ずつです。
二〇〇七年八月十日、参加者全員の初回ワークショップを実施。まさに手さぐりでの事業の幕開けです。そのあとはそれぞれの学校ごとに、ドキュメンタリー映像の企画制作に取り組みます。
「テーマは『福祉』。それ以外には特に決まりはありません。自由に作ってください。」その説明に、生徒たちが戸惑いの表情を浮かべました。それもそのはず、。放送部の大会には細かい規約が設定されており、テーマも高校生活や地域のことなど基準が明確です。それらに慣れている生徒たちは、「自由に」と言われると、困惑してしまったようなのです。「福祉」とはなんだろう、と、テーマの設定にずいぶん時間がかかった学校が目立ちました。
「発想に自由さを与えると、子どもたちは戸惑い、“決められない時間”だけがいたずらに過ぎていくんです。今の高校生たちは、忙しいし、即“答え”を求めたがる。」と、ある学校の顧問の教諭が話されました。
そして、活動を進めていくうちに、現代の高校生が置かれている状況や、いろいろな課題が見えてきたのです。
NPO法人F-site 事務局長 花田恵
手さぐりでスタートした『高校生ドキュメンタリー工房』では、いろいろな課題が見えてきました。今の高校生は、教師や親以外と接することが少なく、大人とのコミュニケーションをあまり経験していないこと。自由に、と言われるとどうしていいか分からなくなってしまうこと、など。
そうした課題に対して、映像制作はとても効果的な取り組みでした。番組を作るためには、地域の大人や私たちとの会話が必要になります。その過程で多くのコミュニケーションの機会が生まれました。同時に、何を目指し、青少年たちとどう向き合っていくべきか、大人同士が話し合う場にもなりました。
中でも編集作業では、「見て、取材対象の想いを考え、どう伝えるか」を繰り返すことができます。私たちも何度も学校に足を運び、映像技術の指導と共に、生徒たちとテーマの設定や番組の構成について話し合いました。ただ、私たちの知らないところで、生徒たちの日々の活動を見守り、導き、ときには叱咤激励をしながら、やる気を持続させてくださったのは、やはり担当の先生方です。先生方のご協力があってこそ、この事業が順調に進行したのです。
参加校が再び集まり、発表会を行ったのは、それから半年後の二月の寒い日でした。各校の力作が上映される中、映像作品初挑戦の美術部が、強豪を押しのけ大喝采を浴びたのです。とりわけ嬉しかったのは、顧問のその後の話でした。「今まで何をやらせても興味を示さなかった生徒が、この活動を通してやりがいを見つけ、積極的になり、なんと映像関係の大学に進学することになりました」と。
もちろんそれはごく稀な例ですが、私たちは、生徒たちにとって何かしら良いきっかけになればと願い、現在まで、高校生との映像制作を柱とした事業を行っています。高校生にも大人にも、参加してくれる人たちにとって意義のある活動だという自信が持てた今では、事業趣旨の説明も、少しははっきりと伝えられるようになったと思います。
NPO法人F-site 事務局長 花田恵
「高校生ドキュメンタリー工房」事業を二カ年にわたり実施し、その事業内容をさらに発展させた「NPOを核とした生涯学習活性化事業」(文部科学省委託事業)を実施するなど、少しずつですが着実に活動実績を積み上げていきました。
高校生への支援活動開始から三年余りがたち、協力メンバーらのおかげで、エフサイトという団体名も、一部の放送・演劇部には定着してきたころです。個別に指導してほしいという要望が各校から多数寄せられるようになりました。
しかし、「え?NPOって、非営利だから無料じゃないんですか?」「ボランティアで指導してくれる親切な方々だと思っていました」
費用が掛かりますと説明したとたん、新たに支援を要請された学校の顧問らから、そういわれたことは一度や二度ではありません。「お金は払えないので」と、指導を途中で打ち切られたこともしばしば。
私たちの活動はイベント的なものではなく、年間を通して毎日のように活動しています。当然のことながら経費が発生し、まして他との兼務などは困難です。私たちも、生徒からお金をもうけようと思っているわけではないので、いろんな助成金制度を探し出し、数えきれないほど企画を練ってさまざまな機関に申請をしました。
沖縄県の方々から学んだことを、富山の若者に伝えようという希望を胸に、自分たちの活動に意義を見いだし始めた私たちにとって、「NPOへの間違った認識」は、がくぜんとするほどヤル気をそいでいくものでした。私の経営する会社も、公共事業の減少により徐々にエフサイトの運営を支えられなくなり、「活動資金不足」はさらに深刻化する一方です。
年間の助成事業を終えた後の交流会の時には、「これで、みなさんと活動を共にするのは、最後かもしれません。長い間ありがとうございました」というあいさつで締め、今後の事業継続について話す度に、決まって「もうやめようか」と、花田恵(事務局長)さんと共に、肩を落として年度末を迎えるのでした。
NPO法人F―site理事長・稲林忠雄
二〇一〇年九月。エフサイトに大きな転機が訪れました。地元の超有名人、フリーアナウンサーの「相本芳彦さん(現エフサイト副理事長)」の加入です。
相本さんとの出会いもまた米須清正さん(沖縄在住・理事)がきっかけでした。米須さんが富山在住時に、相本さんのラジオ番組に出演されたつながりなどを活かし、勇気を振り絞ってNPO活動への参加をお願いしたところ、相本さんが快諾してくださったのです。折しも、 二年後に富山県で初の全国高等学校総合文化祭(総文祭)開催を控え、県内高校放送部からの相談や活動支援要請が増加し始めたころです。同じくフリーアナウンサーの牧内直哉さん(現理事)も加入され、県内の放送部との活動に勢いがつき始めました。
とはいえ、「運営資金不足」は、未だ深刻化の一途。沖縄で活動していた頃の那覇市NPO支援センターを思い出し、富山にもそんな組織がないだろうかと、富山県庁の男女参画ボランティア課 (現男女参画・県民協働課)を訪ねました。そこは、NPO法人を認証するセクションで、様々な機関との協働を推進する役割を担っています。我々NPOが行政や企業、NPO団体などとの協働事業に参画するにはどうすれば良いのかなど、いろんな相談に対応してくれました。
当初、県庁内で活動紹介をする機会があったときのことです。メディア以外で情報発信を行い、かつ、それを「NPO」として青少年育成活動していることを、とても珍しがられた記憶があります。反面、多くの行政マンは、「伝える活動が何故、NPOなのかがわからない」「効果がわかりにくい活動ですね」「エフサイトという名前が、さらにわかりにくくしているのでは」ともいわれ、活路を見いだせぬまま、我慢の一年を過ごすことになりました。しかし翌年(二〇一一年)、富山県庁観光課内に映画等を誘致支援する富山県ロケーションオフィス(TLO)が誕生したこともあり、県庁との関係が一変することになりました。
NPO法人F-site 理事長 稲林忠雄
二〇一一年夏のこと。NHKのディレクターから、「富山を舞台にしたドラマ制作に、是非協力してほしい」という電話がありました。故林隆三さん主演の「港町相撲ボーイズ」です。私が、富山ことば指導として三週間の富山ロケに帯同しました。
時同じくして、富山県ロケーションオフィス(TLO・富山県庁観光課内)からも、支援要請の声がかかりました。故高倉健さん主演の映画「あなたへ」です。富山県内で行われた撮影への支援は、相本芳彦さん(副理事長)が担当しました。エフサイトにとっても、実績作りという意味で願ってもないチャンスだと、時間が許す限り支援にあたりました。
これらが功を奏したのか、富山県から初めて「NPO活動紹介番組制作放送事業(通称NPOチャンネル)」を受注するなど、一気に慌ただしくなりました。
同事業は、富山県内で活躍する様々なNPO団体等を紹介し、広く県民からNPO活動への理解を得ようという事業です。自分たちの経験と特性を活かし、地域に貢献できると、スタッフ全員で喜んだことを覚えています。
この事業の取材で、様々なNPO団体を訪れました。活動は多岐にわたりますが、多くの団体は、活動の周知や継続が困難であるなど、私たちと同じような課題を抱えていたのです。多くのNPO団体の人々と出会い、そして活動内容や課題を知った私たちは、改めて「伝えるNPO」としての使命を感じ、その後も他団体との協働や支援を継続しています。
そして二〇一三年。原点回帰。そういう言葉がピッタリな業務を、富山県警から受託しました。富山県内の高齢者等を対象に、巧妙化する詐欺被害の周知や交通事故防止のための寸劇を実施する事業です。富山に新しい文化の種をまこうと結成してから十年、映像など様々な活動を経て、再び、「芝居」を主にした事業を行うことになったのです。私たちは、多くの方々と直接触れ合いながら、何かを「伝える」ための活動として、使命感と意義を持って事業を行っています。
NPO法人F-site 理事長 稲林忠雄
エフサイトとして活動するようになって十年が経ちました。文化活動から青少年健全育成を目指す活動へ、そこから、地域のNPOや高齢者世代をも対象とする活動へと展開してきました。多様な活動内容に、何の団体なのか分かりにくいと言われることもありますが、手段や方法は違っても、「伝える」「現わす」「頑張っている人たちを応援したい」という想いに変わりはありません。微力ながら、人との対話を大切にし、地道な活動を続けてきた結果、少しずつですが、積み重ねてきた活動実績と人とのつながりが、エフサイトの大きな財産になりました。
さらにうれしいことに、高校生の支援を始めた七年前には高校一年生だった生徒達が、大学を卒業し、現在、私たちの活動に参加してくれるようになったのです。後継者不足という課題を抱える団体が多くある中、それはとてもありがたいことです。
もっとも、NPO活動には、活動の柱となる「意志」が必要です。設立のきっかけとなった「想い」を知らないエフサイトの新しいスタッフや若者らに、それらを伝えていくことがとても重要になっています。そのために、私自身がここまでの歩みを振り返るためにも、このNPO通信の寄稿は、とても貴重な機会をいただいたと感じます。そして、この記事をご覧になった方々との新たな出会いを期待します。
今月六日、私は、設立当初からのメンバーと、入って間もない若いスタッフら数人で、八年ぶりに沖縄表敬訪問を決めました。それは、私たちの後を受け継いでくれるであろう若者達に、原点を見て感じてほしい。感じたものを伝えてほしいという願いがあります。我々の期待に対して彼らは、何を感じ、どう理解してくれるのか…。正直言って、不安材料はいっぱいですが、これも私たちが八年前に沖縄から学んだ、「見て学べ」を実践する場だと思っています。大切なものがしっかり伝わったなら、志を受け継ぐ後継者もできるかもしれません。相変わらず資金難からは、脱出できてはいませんが(笑)
NPO法人F-site 理事長 稲林忠雄